【猿江恩賜公園七不思議】(5) |
「ミニ木蔵」と「毛利藤左衛門」(後編) |
あのオクサレ様はその地に古くから住む「川の神様」で、汚水を流して汚したのは人間です。万が一、オクサレ様を本気で怒らせようものなら、明治43年(1910年)の大水害あるいは大正6年(1917年)の高潮災害の時のようにひどい目に遭わされてしまいます。 なお、公園になってからは、毎年欠かさず堀の大掃除をやっているので、弁当の空箱などを投げ込んだりしない限り逆鱗(げきりん)に触れることはない筈です。 さらに、御材木蔵として利用される前を探ってみれば、この地は享保7年(1722年)に毛利藤左衛門が開拓したとされる毛利新田でした。その広さはおよそ約二万五千坪、現在の猿江恩賜公園の北側地区が85,218u(25,824坪)ですから、ほぼ現在の公園敷地そのものです。 これを幕府が収公するにあたって毛利藤左衛門に与えた代替地はたった七百坪、3%にも満たない広さです。その土地は両国橋の東詰にあったらしいのですが、奇遇にも「片葉の葦」の舞台となった駒止堀のすぐ北側でした。それさえも明治37年(1904年)の両国橋の架け替えで、駒止堀もろともあっさり没収されてしまうのです。 こんないわくのある堀ならば、毛利藤左衛門の悔しい怨念が付近に漂っていたとしても、何ら不思議ではありません。 ところで、江戸時代の古地図には、どこを探しても毛利新田という名前は出てきません。それなのに、江戸幕府が倒れ明治政府が主権を握るようになると、突如として毛利新田が地図上に現れます。 明治に入って、なぜ毛利の名前が復活したかは七不思議に値する出来事であって、明治政府設立の有力者または地図編纂(へんさん)の関係者に毛利ゆかりの人物が混じっていたか、或いは、毛利の執念がそうさせたかのいずれかだろうと勝手に想像してしまいます。
結局、現在の猿江恩賜公園北側地区の住所は江東区毛利2丁目に落ち着いて、毛利藤左衛門の魂も十分満足しているだろうと思います。 |
【前編へ戻る】 |
(このシリーズは、iPadで楽しめるように設計されています。喫茶店でお茶を飲みながら、ゆるりとした気分でお楽しみください。) 東京下町や沖縄を探訪する(「東京・下町自転車」)、「沖縄花だより」、「沖縄紀行・探訪記」、「真樹のなかゆくい」へも、是非訪づれてください。 |